家に帰る途中、宇宙船が見える場所がある。
午前0時。
眠くなりそうな眼をこすりながら、高速道路を進む。県境のトンネル内はネオンライトに照らされて、通り過ぎる車両をミラーボールに変えている。
左右の壁の非常灯が現実から逃げるように腕を上げて踊り、壁と道路とを隔てるように引かれた白線が、出口の暗闇へと繋がっている。
誘われるようにオレンジ色のダンスホールを抜けると、道先は少し上り坂になっていて、車道のコンクリートと満天の夜空とで地平線が作られていた。遠くには霞掛かる連山が立ち並び、麓を上流として田園風景が流れ落ちていている。
高架橋下に流れる下道に目を向ければ、枝分かれした大通りに沿って連なる民家が、まるで小石のごとく転がっていて、滑走路のようにみえる。
正面に向き直すと、景色が前に進むたびに、地平線に隠れていた景色が上下にパノラマロールし盛り上がってきた。
地面から生えてくるかように輪郭が覗む遠景の中心に、不自然に建てられた高層マンション群が1つの塊となって輝きを放っている。
暗闇の先に広がる、どこにでもある地方集落都市のそれは、
まるで停泊している宇宙船のようで。
さながら自分は母船へと帰還するスターシップのようで。
ありふれた地方都市であるこの街のことは最後まで好きになれなかったけれど、
この眺めだけは好きだった。
「もうすぐだね。」
いつものように彼は呟く。
言葉に乗せられるように、小石の海に停泊した琥珀色に光る大型船に向かって、
私たちの身体はゆっくりと運ばれていく。
夢現な景色には必ず彼がいて、ラジオから聞こえる歌謡曲を、ずっと口ずさんでいた。
「宇宙旅行がしたい。」
彼に恥ずかしげもなく自分の想いを告げたのは12月も半ばに差し掛かったころだ。
誰が聞いても慙愧に堪えない台詞を悠々と披露できるほどに新米だった私には、これから始まる新生活への期待値は軒並みではなかった。
親元を離れて間もなかったからかもしれないし、世界中で自分のことは自分にしかわからないと高を括っている時期でもあったからかもしれない。
それでも、どうしても叶えたい夢であった銀河遊泳を、さも簡単に叶えることのできる事象として捉えている程度には未熟で、真剣だった。
そんな小学生でも言わないような理想を語る高揚した私が、まだ合間見えて数分も経たない彼にどのように映っていたのかは、今となっては分からないけれど。
「案内するよ。」
と何も言わずに頬を1度だけ光らせてくれたことはよく覚えていて、
それは当時の私にとって、願いにも満ちた希望となった。
二つ返事で了承してくれたこととは裏腹に、
彼は私に努めて興味がある様子もなく、物静かに佇むことが多かった。
少し小太りで、お世辞にも端正とは言い難い顔立ち。
それでも、街中で初めて彼の横顔を見かけた瞬間に、
「ああ、彼と暮らすことになるんだろうな」
という漠然とした自信が溢れだしていた。
声をかけたのも、旅行を提案したことも、今となっては必然だったように思う。
それは彼自身も感じていたようで、気がつけば一緒に過ごす時間が増えていった。
彼はいつだって無口だった。
何も言わず、それでいて誠実に、
私が望む景色を求め、どこへでも連れて行ってくれた。
地元でもない場所でも土地勘があり、
一度訪れた場所は決して忘れないところも魅力だった。
あまり外交的ではなかった私も、
彼の傍にいるようになってからというもの、水を得た魚のように出かけた。
親戚から譲ってもらえると話が出てからは行動範囲に拍車がかかり。
免許取りたてで乱暴な運転も、快く受け入れてくれた。
突発的に東京タワーに行きたくなっても。
知らない海岸で道に迷いそうになっても。
決して多くは語らず、少し不安な私の手をしっかりと握り締め、
光のある目的地へ導いてくれた。
「星を見に行こう。」
心のどこかで待ち望んでいたことが見透かされていたような、突然の勧め。
生活に慣れ始めた時期に起こりがちな些細なミスが重なり、
順風満帆にみえていた人間関係も窮屈になり、
塞ぎ込んで自分の世界に籠りそうになっていた頃だった。
憧れたこの街も、なんの感情も抱かない見慣れた叙景のひとつになってしまっていた。
初めから希望に色彩なんてなかったのではと邪推するほどに、モノクロームで作画された生活を項垂れながら過ごしていた折、何の前触れもなく彼から提案されたのだった。
午前0時。
徐にエンジンキーを差し込み、ストレスで排気ガスばかりの自室を出発する。
代り映えのない日常を只々必死に眺めているだけだった私を知ってか知らずか、
彼は一言も会話をせず、黙々と運転を続けていた。
FMチューナーからは、ヒットチャートを紹介するアシスタントの声。
程無く、見慣れたバイパスを通り過ぎ、大通りをいつもと違う方向へ曲がる。
知らない地名の書かれた道路標識を過ぎるたびに、
前を行く自動車は少なくなっていく。
有料道路に並走する県道を進んでいく頃にはいつの間にか民家も疎らになっており、
どちらも向いても木々が生い茂る山道に入ろうとしている。
自宅から2時間も過ぎると、道路の傾斜は明らかに峠になっていて、
そんなはずはないと分かりつつも、心なしか空気が冷たく、薄くなったように感じた。
不意に、エンジンが止まる。
思わず彼の手を握り締めてしまう。
エアコンの止まった生温かい室内に、吐息しか聞こえない静寂な車内。
息を飲み、少し深呼吸をしてから、結露した窓に目を向けると、
そこには雲一つない夜空が広がっていた。
市街から見上げたときは気が付かなかった、
星々の揺らめきで色のついたエトワールに溢れる空。
耳を澄ますと、星の声が聞こえるような気がした。
惑星間光速移動とはよく言ったもので。
代り映えのない日常を只々必死に眺めているだけだった私に、
その光のひとつひとつが、懸命に命の灯火として語りかけてくるようで眩しい。
がむしゃらにアクセルを踏み。
深夜の高速道路のように眠くなりそうな広い世の中で。
自分で進んでいるのか、実はレールが敷かれているのかも見えなくなっていて。
いつブレーキを踏めばいいかの力加減も分からず、只ひたすらに生きてきた私も、
その瞬間だけは、銀河の片隅で眩しさの欠片に成れたような気がして。
繋がれた手を、壊れないように強く握り返す。
宇宙船の光とは違う、小さいけれど確かに感じる星斗を、
彼は瞬きもせずにじっと見つめていた。
「もう一緒にはいられない」
と言われたのは、新生活も落ち着いてきた6年目の秋だった。
予兆はあったし、無理をさせていたのは自覚していた。
我儘な私に振り回されて少しずつ傷ついていた彼との離別は想像よりも早く、
すぐに切り替えることは難しかったけれど、どこか諦めて納得している自分もいた。
別れ話の最中も、彼の言葉数は少なかった。
言葉の要らない悠久を感じていた無言も、夜空のように冷たくて涼しい静かな空間も、
今となっては何も語ることはないという重圧に感じられた。
不図に企画した最期の旅行も、宇宙船の見える道へのドライブとなった。
どちらからともなく車の鍵を握り締め、気がつけば馴染みの県境トンネルを抜けていた。
いつもとは違う、いつもの午前0時。
コンクリートの道は白線とライトを伴って永遠と続いている。
遠くには、宇宙船が、ひとつ。
未確認飛行物体に見えていたマンションも、
ひとつひとつが、同じ街に暮らす人々の営みの光で。
近づけば輪郭がはっきりと見えてくるからこそ、
俯瞰で見たときに集合体としての美しさが成り立つのだろうか。
『物理的距離は、精神的な距離を越えられない』
ふと立ち寄ったコンビニで、いつまでも売れ残っている恋愛指南書を捲りながら、
店の外で休憩している彼の顔は、どこまでも穏やかなままで。
明日にはもう離れ離れになると分かっていても、不思議と涙は出なかった。
それはきっと、砂利のようなベッドの上で、少しでも私が不安にならないようにと、
彼が静かに見つめ返してくれていたからなのかもしれない。
国道沿いの、大きな看板の連なるコンクリートの上を、無言の彼と進む。
こんな時まで無言で居なくても、と思うけれど。
そんな彼のことが好きだったんだ、とも改めて偲ぶ。
言葉にはできず、少し唇を噛む。
目的地が近づき、整備された路肩を左に曲がり、駐車場に止める。
均一に引かれた白いラインの枠内に、色とりどりの無機物が綺麗に並んでいる。
彼もまた、そのカラフルなパレットの一員になろうとしている。
薄青色の背中は、少し色あせて見えたけれど。
それはまるで、宇宙船のように眩くて。
絵皿の中で一番輝きを放っているように見え、
まだ、という期待に溢れそうなくらい優しい色だった。
思い返せば。
彼にとって、私は決して褒められるような存在ではなかった、ように思う。
出会う前のことについてあまり詮索をしなかったことも、
聞かなければ話してもらえなかった彼の過去も。
もう少し傍にいられれば、繊細にその光の表面を縁取れたのだろうか。
恋人と呼ぶには、あまりにも近すぎて。
友人と呼ぶには、お互いのことを知らなくて。
ねえ。
あなたは、どこへ行きたかったの。
ただ、いつも傍で寄り添ってくれていた彼に、
伝えたい言葉は幾つもあるのに。
宇宙船のような彼の光沢した姿を見ると、
途端に何も言えなくなってしまう。
もしかしたら。
同じだったのだろうか。
唇を噛む力が強くなる。
「 。」
弾き出された想いは、
声として漏れ出てはいなかったかもしれない。
驚くほど自然に、彼の名前を発するように唇が動いた。
少し遅れて、涙が溢れ出る。
それは、流れ星だなんて綺麗なものではなく。
トンネルに映し出されるテールランプのように、真っすぐに。
一筋に、ゆっくりと零れ落ちた。
ぼやけ始めた視界の先で、彼は相変わらず無言だったけれど。
今更に感情を表に出す私をみつめ、少し微笑んでいるようだ。
「行こう。」
家族に手を引かれ、駐車場を後にする。
新しい車のキーボタンを押すと、
レーザービームのような音とともに運転席のドアが開く。
深夜の高速道路のように気怠くも淡々と続く長距離運転のような生活も、
瑠璃色に輝く宇宙船への惑星間飛行だと思えば、明日への道標になるかもしれない。
それに気づかせてくれたのは他でもない彼だった。
もう、振り返らない。
彼との思い出を乗せて、今日も午前0時の宇宙を越えていく。
……。
…。
。
P.S.
ありがとう。
麗しの愛車、モビリオ。
また運転するね。
Fin.