歩き続けて、どこまでも行こう。
どもども、ひゃくとんです。
前回の記事の続きです。
「劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲」の追想記事でございます。
この記事からでも読めるように、映画のあらすじを再掲。
ポケットモンスター、通称「ポケモン」という生命体が人間と共に暮らす世界で。
悪の組織ロケット団の実験によって生み出されたポケモン、ミュウツーが目を覚まします。
彼は、伝説のポケモン「ミュウ」の化石の一部をもとに様々な改良を加えられ、戦闘力や知能など高い能力を付加されて作られました。
しかし、ミュウツーは「人工的に作られた自分は一体何者なのだろう」と存在意義について疑問を抱き、研究所を脱走してしまいました。
一方。
ポケモン同士を戦わせるポケモントレーナーのチャンピオンを目指す少年サトシは、仲間や相棒のピカチュウと共に旅を続けておりました。
そんな彼のもとに、ある招待状が届きます。
「優秀なトレーナーをポケモン城に招待している」という内容に惹かれたサトシは、胸を躍らせながら城へと辿り着きました。
到着したポケモン城には、サトシの他にもたくさんのトレーナーたちが自慢のポケモンを連れて招待されていました。
しかし、その招待状を出したのはミュウツーであり、彼はポケモンでありながら自身もポケモントレーナーとして城に君臨し、招待客の強いポケモンを操作しコピーを作成しようと目論んで待っていたのです。
次々と奪われコピーが作られていくポケモンたち。
その会場に突然ミュウも現れ、自己存在をかけたオリジナルvsコピーの戦いが始まります。
さて。
前半でも述べてきた通り。
クライマックスのシーンでは、ポケモンアニメ常連のキャラクターのリアクションを交えながら、本物のポケモンとコピーポケモンの戦いが続いていきます。
しかしながら、同じ能力、同じ思考の鏡写し同士です。
双方が疲弊し、相打ちとなり次々と倒れていきます。
しかし、ミュウとミュウツーの戦いは続く。
この戦いに意味があるのか。決着の先に答えはあるのか。
蹲っているポケモンたちを尻目に、
両者の放つエネルギー弾が会場を破壊していきます。
……この戦闘シーン、実は英語版と日本版では少し違うんですよね。
画面や吹き替えられた英訳の台詞の意味は同じなんですが、バックに流れる音楽がかなり異なっているんです(`・ω・´)シャキーン
日本版はいかにも戦闘シーンらしい派手な音楽。
意外なことに。
英語版はすこし悲しげなスローバラードが流れます。
戦闘の無意味さを表現するには英語版の方が直截な音楽かもしれないですね。
日本版はそこまで直截な表現は必要ないと考えたのか、
それとも戦闘シーンだから派手にしたかったかは分かりませんが、
英語版の音楽の使い方もまた別解釈で好きです。
いよいよ。
この映画のクライマックス中のまさにクライマックス。
戦闘が佳境に入った時、主人公のサトシが戦闘を止めさせようと、
ミュウとミュウツーの戦いの間に割って入ります。
その頂点であるポケモンマスターになることを目指している少年です。
それが彼の夢だったはずなので、バトルを否定するのは基本的に矛盾していますよね。
しかし、身をもって戦いを止めに入る。
10歳のサトシは、理屈が分かるほどの大人ではありません。
おそらく彼は、自分の矛盾を意識していない。
自己存在の証明などという問いも分かってはいないはずです。
ただ、無意味で悲惨な戦いを目の当たりにして、気が付けば飛び込んでしまった。
「やめろ!」
意識したのではなく、サトシはそう叫び、体が動いてしまった。
ミュウとミュウツー戦いの間に入り、
双方の攻撃を浴びてしまい倒れたサトシは、石化して動けなくなってしまいました。
ゲームであろうと競技であろうと、
いままでバトルを肯定してきたサトシは、無意識でバトルを否定してしまった。
サトシの行動は矛盾しています。
だから動けない。しゃべれない。比喩表現ではなく、石になるしかない。
「ポケモン」の世界は、
ゲームにしろアニメにしろ、死を避けるのがお約束ですので、
このシーンでサトシを死ぬ代わりに石にしたと解釈した方もいるかもしれませんが、
脚本家にその意図はないように感じます。
死ではなく、石化したことに意味があるのかな、と。
サトシが倒れた後、
サトシのピカチュウが近づき、
何度も何度も電撃で、石化したサトシをもとに戻そうとします。
それでもサトシは動きません。
必死に技を加えるのは、サトシとピカチュウの間に生まれた友情や絆のためだけではないような気がします。
サトシのピカチュウは。
コピーピカチュウとのバトルに対して、
無抵抗でいることでしか自分を表現しませんでした。
サトシは、バトル肯定のポケモン世界の中で、
しかもバトル至上主義のポケモントレーナーでありながらバトルを否定してしまった。
バトルに勝つことが価値観である世界を、本人が無意識であるにせよ変えてしまった存在なんです。
自己存在への答えを、潜在意識の中で「戦いを止めさせること」だと見つけて行動してしまった存在がサトシ。
(もちろんサトシ本人は、それを分かってはいないわけですが……)
サトシのピカチュウは「ポケモン」の世界に、そんなサトシにいてほしかった。
黙って動かない石のままでいてほしくなかった。
しかし、ピカチュウの電撃だけでは元のサトシに戻らない。
ピカチュウの頬から、自然と溢れる涙。
そして。
ピカチュウの涙を皮切りに。
共倒れになりながら、この様子を見ていたポケモンたちも涙を流し始めます。
オリジナルもコピーも関係なく涙の雫は落ちていく。
ポケモンたちの涙は、気が付けば天を舞い始め。
なんと、サトシに集まっていくではありませんか!
この光景に驚きを隠せないミュウツー。
少しずつ集まった涙は次第にサトシを包み込み、見事に石化を解いていくのです。
めでたし。
結果的に言えば。
サトシの石化はピカチュウの涙だけではなく、
オリジナルとコピー、それぞれのポケモンたちの涙が集まったことで解かれました。
この涙はどうして流れたのでしょうか。
もちろん、ピカチュウにとっては、
相棒であるサトシと二度と話せないかもしれない、旅ができないかもしれないという
悲しさから来るものに違いありません。
周りで見ていたポケモンたちは。
見ているだけの存在でしかなかった人間が、
ポケモンのために身を以て行動してくれたその熱量に感極まったのかもしれません。
重要なのは。
オリジナルもコピーも関係なく。
「ポケモン」が涙を流した、という事実です。
かつてミュウツーは、研究員から
「生き物が涙を流すだけは痛い時だけ、悲しみで涙を流すのは人間だけ」と学びました。
しかし、この場にいるポケモン達は痛みではなく悲しみで涙を流していた。
これは、人間だけではなく。
ポケモンも”悲しむことのできる存在”である事の証明であり、
またサトシの石化が解けた事で生きることの可能性を伝えているのかもしれません。
この出来事を目の当たりにしたミュウツーは、
その場の人間たちの記憶を消したのち、
ミュウとコピーポケモンと共にどこかへ飛び立っていきます。
「確かにお前も私も既に存在しているポケモン同士だ」
「我々は生きる。生き続ける。この世界のどこかで」
いやあ。
良い映画ですね(´・ω・`)
ちなみに余談ですが。
現在放送中のアニメ内で、こちらも実に24年振りにミュウツーが復活しました。
コピーポケモンや人間に傷つけられたポケモンたちと、穏やかに暮らしているようです。
やや竜頭蛇尾な感想記事でしたが。
ミュウツーよ。
生きる意味を探すことに疲れたら。
夢の様に、一緒にトランプでもして過ごしましょうやい。
皆もポケモン、ゲットじゃぞ~!(`・ω・´)シャキーン