
死んだら本の続きが読めないと知ったのは死んでからだった。
いざ幽霊になってみたところで動かせるのは良くて枯葉程度で、
本を動かす以前に望んだページを開くのにもどうやら才能がいるらしい。
死してなお自分の才能無さに気付かされることになるとは。
恥ずかしくて死にたい。
そもそも死んだ理由からして才能がない。
たまたま早く仕事が終わり。
たまたま横断歩道の信号が全て青で。
いつもより数本早いバスに一番前で乗りこめて。
いつもなら座れない運転手のすぐ後ろの席に座れ。
普段続かない幸運が続いていたと思ったら。
不運と踊ってしまったというわけ。
煙と鉄の破片とそれから私。
猛スピードで突っ込んできた対向車線のダンプカーに激突されたようで。
不運にも右側前列に居た運転手と私だけが死亡した事故だったらしい。
連続したラッキーのあとに不意にアンラッキーがきて死んだ。
なんてことはない。
死ぬときはあっけなく死ぬのだ。
この日はゆっくりと小説が読めると安堵していた矢先のことであった。
その物語は推理小説シリーズの最終章で。
ある事件を追いかけていた主人公が自らの出生と向き合いながら、
どのように犯人である父親と対峙するかが肝となるクライマックス。
左手の本の厚みも残り数ミリ。
事件の証拠品を突きつけ、生き別れになっていた肉親でもある殺人犯に、
「もう終わりにしよう」と探偵が声をかける。
警察からも人生からも逃げていた老年の彼が、
相対する我が子に顔を向け、笑顔とも泣き顔ともとれる表情になり、
親子として初めて言葉を交わすその瞬間―—。
急に現実世界に引き戻されて身体が宙に浮いたのだ。
最後の数ページを捲ることもできず、
自分の人生は終わってしまったようだけれど。
せめて探偵家族の顛末を見届けないことには死んでも死にきれない。
そんな浅はかな想いだけで現世に取り残されたまではいいものの。
それ以外の生への執着が足りなかったせいか、
成仏もできずに本も碌に読めやしない怨霊になり果てている。
事故の衝撃で私もろとも道路に放り出されてしまったその単行本を、
警察が片づける前に必死に動かそうとしてみたがびくともしない。
そもそも生前に念力など使ったことはないのだ。
色々と試してはみたが力のない幽霊は空も飛べないし壁を通り抜けることもできないようである。
ページが捲れないならば、生きた読者に「憑く」ほかはない。
すでに発想だけは幽霊らしくなってきた自分をやや誇りに思いながら、
生前の拙い記憶を手繰り寄せる。
たしか、終点のターミナル駅には本屋があったはず。
事故処理が治まり何事もない平穏な日常に戻るのを待って、
自分が死ぬことになった路線バスに乗り直す羽目となった。
無賃乗車のまま駅前のバス停に降り立ち、
改札とは反対方向の商店街の入り口へと向かう。
高架下にアーケード街のような店が並んでいる角地にその店はある。
立ち読みする人すら少ない小さな本屋で、
週刊誌や雑誌しか売れている様子はなく、なぜ経営が成り立っているのか不思議だ。
奥には暇そうにレジ周りを掃除している女性定員がひとり。
店頭の図書カードポスターに印字された柴犬に一瞥し店内に入ると、
意外なことにお目当ての本はポップ付きで平積みされていた。
『3年ぶり、待望の新刊にして最終章!』
全4冊、起承転結の結を担う本作で引退することを決めていたこともあり、
自ら課したハードルに筆が重くなり、結末が決まらずに執筆速度が遅くなったのだ。
作者曰く。
今作の犯人は自分の現身であると。
両親から離れて育ち、無心で執筆活動に没頭し、
アイデアが浮かばない日々に焦燥しては連れ立った家族に見捨てられ。
そんななか、せめて彼らの物語だけでも終着させようと必死に紡ぎ、
すべてを終わりにしようと完結させた渾身の退役シリーズだそうだ。
終盤、探偵から父親に漏れた言葉は、
本当は作者自身がかけて貰いたかった言葉なのである。
しかしそんな裏事情を知っているのは作者本人と、
発刊記念のインタビュー記事まで読むような愛読家間だけでの話であって。
発売から1か月も経った今、往年の読者は既に購入済みであろう続き物を、
駅前の古びた店舗でいまさら最終巻だけ購入するひとなどいないのではないか。
幽霊的直観とはよく当たるもので。
数日待ったが、一向に売れる気配がない。
ちょうど不自然なことに。
読みたかったページの少し手前あたりに売上スリップが栞のように挟まっている。
眼力を使ってもアブラカダブラと唱えてみても、表面の誇りが少し舞うだけで店員を驚かすこともできない。
参った。
MPが足りない魔法を繰り返しているうちに、
気が付けば閉店時間になっていた。
不意に。
女性店員が店内を歩き回り始めた。
出入り口の自動ドアをオフにし、シャッターをガラガラと閉める。
そのままレジに向かい帰宅準備をするのかと様子を見ていたら、
なんと、ゆっくりとPOPの手前にある件の単行本を持ち上げたのだ。
まさか。
この店員、あろうことか購入前の単行本を読んでから帰ろうとしているらしい。
本来中央辺りに挟まれているはずの売上スリップが、後半に差し込まれている不自然さの理由が判明し、掛けてはいない眼鏡をクイと上げたくなる衝動に襲われた。
灯台下暗し。
店員の親指の力が緩み、びくともしなかったページが捲られていく度に物語は進む。
左手につままれた残書が薄くなり、いよいよ主人公が証拠品を突き出す。
「もうすぐ終わるんだね」
誰もいないはずの本屋で彼女は、誰かに話しかける音量でそうつぶやいた。
終わる?
物語に対してか、作者への労いか。
はたまた、同時視聴している私への弔いなのだろうか。
言葉を発したもとへ視線を向ける。
少し猫背な背中に、淋しげな口元。
項から垂れる数本には少し白髪が混じっている。
本に吸いつくように視線を送る店員の姿を見て、
どうしてこの特徴のない本屋にいくことにしたのか少しだけ分かったような気がした。
死んでいるはずなのに頭が殴られたように痛い。
店員の指先が再生紙をかきあげる。
最後の1ページ。
「もう終わりにしよう」
探偵から漏れ出た言葉は、祈りのようであった。
それは罪を犯したことへの弾劾にも警察からも家族からも逃げてきた老年への憤りにも聞こえたが、何処か慈愛の感じる声色で鍾乳洞内に跳ね返った。
「もう、終わりにしたいのか。」
苦悶の表情を浮かべる探偵に相対する。
追い追われ、向き合うことのなかった二人の視線が、人生が、一線に繋がった。
実の息子として誇らしいという感情が生まれた自分に驚きを隠せない。しかし、彼はまだ知らないのだ。この手中にある輝きを。父が求める理想の世界を。
「いや……。」
笑顔とも泣き顔ともとれる表情になり、彼は再度俯きながら探偵に呟いた。
『これから始まるのさ。』
差し伸べられた手のひらには、煌々として蒼深く光るブルーサファイヤがあった。
「な、なぜ、ここに……。」
探偵はライヘンバッハの滝に突き落とされたような感覚に陥る。
突然の閃光。同時に立ち上がる粉塵。衝動的に叫んだが返事はなかった。煙幕とともに父の姿が見えなくなる。
帰ってきたのはただ、周りの崖で木霊となった自分の声の反響だけだった。
続く。
あとがきのない最終項がめくられ背表紙を閉じる音が優しく響く。
木葉の上を流れる雨雫のような動きで、指先が背面のバーコードを滴る。
終幕とともに店内が雨上がりの匂いに包まれていた。
1つの物事、ひとまとまりと考えられる物事が、きれずにつながる。
そう、これはこのあとのシリーズへとつながる、終わりと始まりの物語。
糸偏に売れるという文字が目に入ってきた刹那、
事故に遭った瞬間かのように身体が突然軽くなった。
そうだ。
忘れていた。
ここから始めたかったんだ。
事件が終わっても生活が続くように。
探偵も犯人も、かれら親子も、そして自分も。
物語はずっと続いていく。
過去を書きたかったんじゃない。
未来を描きたかったんだ。
気がつけば書店全体が見渡せる視野が広がっていた。
すでに浮かんでいた肉体が薄れていき、
思考とともにふわりふわりと徐々に舞い上がっていくのがわかる。
――ああ、成仏するんだ。
視界が徐々に白色に変わっていく。
遠のく意識と世界。
眼前に、一冊の本が見える。
捲っても捲っても文字一つない。
重なる紙の先には、透明な栞。
「また、会おうね」
後ろから女性店員の声が聞こえる。
来ないであろう再開を求めるその心は、
決して叶うことのない再会を約束しているような温かい形をしていた。
「また、始めよう」
引退作が遺作となるのも悪くないな。
過去の文豪の一員になれたような気がして口元が緩んでいく。
未完の続編の構想が浮かびながら悠々とした気持で成仏する自分がいるのであった。